汚名 銀河英雄伝説外伝 (出典:「銀河英雄伝説」読本) 田中芳樹・著  頭上に巨大なガス状惑星がかかって、瑪瑙《めのう》色の目でジークフリード・キルヒアイスを見おろしている……。  それはむろん相対的位置感覚のなせる業《わざ》であって、正確には、キルヒアイスがいるのはガス状惑星ゾーストの静止衛星軌道上を周回する人工衛星クロイツナハ|㈽《ドライ》であった。帝国歴四八六年、宇宙歴七九五年の一一月、燃えあがる炎のような赤い髪をした一九歳の帝国軍中佐は、それほど自発的に望んだわけでもない休暇の数日をすごすため、クロイツナハ㈽をおとずれたのである。  人工の大地と人工の空気を持つこの宮中楼閣を訪問するのは、キルヒアイスにとって最初のことではない。辺境宙域を往来する商人や軍人にとって、歓楽のさまざまな機能──酒場、ホテル、カジノ、売春宿、ドッグレース場、各種スポーツ施設などをそなえたクロイツナハ㈽は、欲望と憂《う》さのはらしどころとして不可欠であったが、キルヒアイスはそれほど楽しい場所と思ったこともなかった。  楽しむべきはずの場所で楽しめないのは貧乏性というやつかな──赤毛の若者は苦笑まじりに考えた。さしあたり、彼の視界に強大な敵軍の姿はなく、決裁を必要とする書類もない。そして彼の忠誠心と、それ以上に強く深い感情の対象であるラインハルト・フォン・ミューゼルもいないのだった。  年が明けて帝国歴四八七年になれば、ラインハルトは上級大将に昇進し、それにともなって自由惑星同盟領に対する大規模な侵攻作戦を指揮することになっていた。キルヒアイスも大佐となり、副官として彼を補佐する。情報収集や補給体制の整備など、戦略レベルでの準備は相当ていど進んでいた。気がかりなのは、メルカッツ、ファーレンハイトら、はじめて彼の指揮下に属する提督たちが私心を捨てて協力してくれるか否か、その一点にあった。それを除けば、帝都オーディンへの帰途、数日のささやかな休暇を楽しむていどの余裕が生まれていた。本来、キルヒアイスはラインハルトとともにクロイツナハ㈽に立ちよる予定であったのだが、ラインハルトに所用ができて三日ほど遅れることになったのだ。 「おれは伯爵家をつぐことになった。ラインハルト・フォン・ローエングラム伯爵閣下というわけさ。だから、もとのローエングラム家の墓もうでなんかをしておかなくちゃならない」  ローエングラム家は、帝国の他の貴族がそうであるように、建国者ルドルフ大帝によって、その権力の獲得と維持に貢献したと認められ、爵位とそれにともなうさまざまの特権を授けられたのである。 「功績というのは、すなわち、民衆の蜂起を弾圧し、無抵抗の女子供を迫害し、思想犯を殺したということさ。歴史上の前科者だ……。だが、ローエングラムという名のひびきはいいな。ミューゼルよりずっといい」  二〇代にわたってつづいた旧家も、一五年ほど前に直系が絶え、一族の者が養子となったがそれも若くして病没し、事実上廃絶していた。その家名を、成年を迎えるラインハルトの相続によって復活させようというのだ。  だが、ラインハルトは皇帝の寵妃の弟であるにすぎず、旧来の門閥貴族たちから見れば、権力秩序の諧調をみだすなりあがり者である。あらたな位階をえれば、それにふさわしい功績を要求されるであろう。そして功績をあげればあげたで嫉視反感の対象となる。 「結局、門閥貴族どもの敵意を消すには、奴ら自身を消してしまうしかないのさ」  ラインハルトは蒼氷色《アイス・ブルー》の瞳をひややかに光らせて言った。それは事実の報告ではなく、決意の表明であった。現在のゴールデンバウム王家から与えられる名誉や特権は、ラインハルトにとっては、遠大な目的を達成するための小道具でしかなかった。 「たまには、おれ抜きで休暇を楽しんでこい。どうせ二、三日のことだ。あまりお前に世話をさせると、姉上にしかられる」  そう言われると、キルヒアイスは「お言葉に甘えて」と応じるしかなかった……。  こうして赤毛の若者はひとりでホテルをチェック・インした。 「ジークフリード・キルヒアイス、陸軍中佐。休暇中。滞在予定五日間」  フロントで予約番号を確認してそう記帳すると、支配人はその記述とキルヒアイスの容姿をつくづくと見くらべた。 「失礼ながら、中佐にしてはお若くていらっしゃいますな」  貴族の子弟であれば、家門によって年齢不相応の地位に上がることは珍しくない。だが、キルヒアイスの姓には貴族の証名たる|VON《フォン》の三文字が脱落している。奇異の念を持たれることは、べつにこれが最初ではなかった。  まもなく大佐になるのだ、と言ってやったら、どういう反応が返ってくるだろうか、と思ったが、むろん実行したりはせず、キルヒアイスはさりげなく一言を返したきりである。 「よくそう言われます」  電子鍵《エレクトロ・キー》を受けとって、一九〇センチの長身をひるがえしかけたキルヒアイスは、異様な物体を視界のうちに認めて動作を停止した。それは彼に劣らぬ長身と、五割がた広い身体の幅を持つ二〇代半ばの男だった。  キルヒアイスの視界は磁性をおびたように、その男に吸いよせられた。  恐怖まで高まりはしないものの、危険の予兆を感じさせるものがそこにあった。それは温室のなかに流れこんできた寒気のように周囲との異質さを触感させるものである。男はできそこないのからくり人形のように不自然な動きで、ひとりの老紳士にむけて両足を動かしていた。その紳士は、キルヒアイスから五、六歩離れた場所でチェック・インをすませかけていたのだ。  周囲の人々にとって、事態の急変はおどろくべきものだった。男が刃の厚い超硬度鋼のナイフを服からとりだし、老紳士めがけて闘牛のように突きかかると、赤毛の若者が横あいから飛び出し、老紳士を突きとばしつつ、長い脚をはねあげて男の手からナイフを蹴とばしたのだ。ナイフが床に落ちついて鈍いひびきをあげ、数ヵ所で女性の悲鳴が放たれるなか、加害者と救援者は一瞬にらみあった。  相手が見つめているのはキルヒアイスではなく、存在意識の迷宮から見えない糸によってさそい出された、極彩色の巨大な牛人《ミノタウロス》であることは明らかだった。  兇暴な光が男の両眼に満ち、それが全体に広がっていくのをキルヒアイスはリトマス試験紙でも見るように確認した。一見細身に思われるキルヒアイスは、外見よりはるかに膂力《りょりょく》があるが、単なる力だけではこの巨漢に対抗するのは難しそうだった。  キルヒアイスの長身が鞭のようにしなった。男の腕が風圧を生じながら彼の服をかすめ、空気をうちくだいた。体重の乗ったみごとな一撃だったが、間一髪でかわされ、たくましい巨体はバランスを失ってよろめいた。にもかかわらず、男の闘気はおとろえず、不自然な体勢から第二撃をつき出してくる。それを二の腕で受けて引っぱずすと、キルヒアイスは強靭な手首をひらめかせた。  強烈な一打が男の腹の上部に埋まった。男の巨体はほんの数ミリだがたしかに宙に浮きあがり、大きく息をはき出すと、ぎくしゃくと床にのめりこんでいった。  予想していたとはいえ、悪い予感が的中するのはこころよいものではない。常人なら胃壁が破れ、胃液と血をはいて昏倒するであろうほどの一撃を与えたのに、五、六秒後、男は、表情を動かすこともなく起きあがったのだ。  苦痛を感じない状態にある男は、人間が鈍重な冷血動物に退行したかのような形相で、近くに置かれていた強化ガラスのテーブルをつかみ、目よりも高くさしあげた。  テーブルはうなりを生じて飛び、一瞬前までキルヒアイスの頭部があった空間をまっぷたつに引き裂いて、赤い砂岩でつくられたロビーの装飾柱に激突した。  男の怪力が、見物人たちの間に恐怖と感嘆のざわめきを発しさせた。だが、それを知覚することが可能だったとしても、男は、勝ち誇るだけの時間を与えられなかった。キルヒアイスの動作は、迅速をきわめた。長身を床にむかって投げ出し、一回転して男の足もとに達すると、思いきり強く、横なぐりに男の脚を自らの脚ではらったのだ。  男の巨体は一瞬、宙に浮き、腹にひびく音をたてて床に落下した。頭を床に打ちつけ、大きく息をはき出すと、そのまま動かなくなる。  キルヒアイスが立ちあがり、乱れた赤い髪を片手でかきあげるといささか軽薄な拍手の輪が彼をつつんだ。  老紳士がキルヒアイスの前に歩みよった。自分が救った相手を、赤毛の若者が熟視したのは最初だった。漂白されたような頭髪、肉の落ちた頬、やや猫背ぎみの姿勢などが彼の印象に残った。 「どうやら私は君に生命を救われたようだ、お若いの。礼を言わねばなるまい」  老紳士は礼儀正しく頭をさげた。 「私はカイザーリング男爵だ。見ず知らずの私を、一身をかえりみず救ってくれて感謝する」  その固有名詞に、キルヒアイスは記憶があった。  ミヒャエル・フォン・カイザーリング退役少将。カイザーリング男爵家一九代目当主で、三年ほど前に軍をしりぞいたはずである。いまだ将官としての退役年齢に達してはおらず、その退役は強制されたものであった。  たしか六〇歳をこしたばかりのはずであるが、カイザーリングは実際の年齢よりはるかに長い歳月の歩みを、その精神と肉体に課してきたように見える。失意の道の険《けわ》しさをキルヒアイスは思いやらずにいられない。 「ごていねいなお言葉、いたみいります。自分は帝国軍中佐ジークフリード・キルヒアイスと申します」 「ほう、中佐にしてはお若い」  老退役軍の声には悪意はなく、それだけにかえってキルヒアイスは表情の選択にこまった。世評を知る者は、なかなか無心ではいられないのである。  五世紀になんなんとするゴールデンバウム朝銀河帝国軍の歴史は、勝利と同数の敗北、名誉と同量の不名誉を、その両腕にかかえこんでいる。けっして黄金の文字で記されることはない数々の記録のなかには、帝国歴三三一年のダゴン星域での敗北、三八七年のシャンダルーア星域での敗北、四〇八年のテレマン提督|麾下《きか》の兵士叛乱事件、四一九年のジークマイスター提督の亡命事件、同年のフォルセティ星域での敗北、四四二年のミヒェールゼン提督の暗殺事件などが列挙されるが、四八三年のアルレスハイム星域での敗北も、それらに伍するものであった。カイザーリング中将麾下の帝国軍は、同盟軍の行動を巧妙に探知し、時機をはかって効果的な奇襲をかけようとしていた。ところが、その時機がこないうちに、指揮官の命令を無視して帝国軍は乱射をはじめ、同盟軍の逆襲をあびてしまった。  いざ戦いとなったとき、帝国軍はぶざまにも、なだれをうって潰走《かいそう》し、同盟軍の苛烈な追撃戦の一方的な被害者となったのである。奇襲をかけるべく潜伏していた艦隊が、敵中で自らの位置を明らかにしたのだから、その帰結は当然のものであった。カイザーリング艦隊の死傷率は六割のラインをこえた。  一方的な失敗による一方的な敗北。「敗者に敗因あって勝者に勝因なき」この戦いは、帝国軍の自尊心を傷つけることははなはだしかった。敗軍をようやくまとめて帰ったカイザーリングを、軍事裁判の被告席が待ちうけていた。  カイザーリングの無能、ことに狂乱化した部下を沈静しえなかった指導力の欠如が、糾弾《きゅうだん》の対象となった。常識外の乱射と、無秩序きわまる潰走との責任が指揮官に帰するものとすれば、カイザーリングがとがめられるのは当然であった。皇帝フリードリヒ四世の重病が快癒《かいゆ》し、恩赦がおこなわれたからこそ、カイザーリングは少将への降等のうえ退役、という処分ですんだのだが、被告席でかたくなな沈黙を守りとおした指揮官の名誉は永久に傷ついたのである。  世評に言われるほど無能で品性の低い人だとは、キルヒアイスには思えなかった。だが、公人と私人とはかならずしも等質の人格を具《そな》えているわけではない。非戦闘員を虐殺残忍な指揮官が家庭ではやさしい父親であったとか、高潔な教育者が街で娼婦を買っていたとかいった例は無数にある。カイザーリングは公人としての能力において非難されているのだから、私人としての好感によってその非難を減殺《げんさい》せしめることはできないのだった。  形式的な二、三のやりとりの後、キルヒアイスはようやく駆けつけた警官たちによって事情を聴取されることになった。歩みさる彼の背に、アルコールの匂いをからみつかせた声が投げつけられた。 「赤毛ののっぽ[#「のっぽ」に傍点]の兄さん、強いねえ、あんたに一〇〇マルク賭けとけばよかった」  残念でしたね、と言ってやろうか、と一瞬だがキルヒアイスが思ったのは、歓楽地の解放的な空気が、意外な作用力の強さをしめしたのかもしれなかった。  警官の詰所についてしばらく待たされた後、下っぱ[#「下っぱ」に傍点]たちは退散し、初老の上司が鄭重に彼にあいさつした。 「キルヒアイス中佐でいらっしゃいますな、どうもご苦労をおかけしました。私はここの治安責任者で、ホフマン警視と申します」  警視と中佐とのどちらがより高い地位にあるのか、正確なことはキルヒアイスは知らない。官僚国家においては、叙勲や俸給において厳密な序列が存在するのだが、いずれにしても自分の三倍ほど人生をつとめあげてきたであろう年長者に頭をさげられるのは、キルヒアイスにはいささか気が重かった。すすめられるままに、趣味や個性と完全に無縁な規格品のソファーに腰をおろす。 「私どもの手がいたらないところを、中佐に救っていただき、感謝にたえません」 「いや、偶然いあわせただけのことですから」 「では偶然に感謝しましょう。ところで例の男ですが、唾液から薬物反応がでました」 「薬物反応……?」 「さよう、薬物反応です」  重々しくホフマン警視はうなずいていせた。 「この一五年ほど、軍隊内や辺境で暴威をふるっているサイオキシンという麻薬です。あの男はその薬で踊らされて、理性の檻《おり》から飛び出し、老人に──カイザーリング男爵閣下に襲いかかったというわけです」 「……それで、なぜ私にそんなことをお話しになるのです? 捜査上の秘密でしょうに」 「いや、じつは……」  警視は残りすくない銀色の髪に、太い指をはわせた。血色のいい顔に、困惑の表情がとびはねている。 「軍人がからんだ犯罪ですと、警察もいろいろとやりづらいことがありましてな。あの男の身分証によると現役の兵長でして、それがあのていたらく[#「ていたらく」に傍点]。当然、麻薬中毒患者という作物がとれる畑はその周囲にあるわけで……」 「すると軍隊の中に、麻薬をあつかう非合法組織が存在するとお思いなのですか」  ホフマン警視は、しさいありげなまばたきをくり返してみせた。 「さよう、組織です。ひとりの力でやれることではありません。麻薬を栽培する者、加工する者、売りつける者、それによる利益を分配する者。彼らの共通の利益は巨大なもので、いきおい結束は強く、口はかたくなるのです」  ふとい吐息。一連の彼の言動に、どことなく演技がかったものをキルヒアイスは感じた。 「とくに、軍隊内のルートを使われると、まことに摘発しにくくなるのです。警察としては、よほどのことがないと憲兵隊に協力を要請することすら遠慮している状態ですからな。軍人は言うのですよ、軍隊のことは軍人にまかせろ、と」  赤毛の若者はごくわずかに眉をひそめた。相手の思惑を理解したのだ。 「なるほど、麻薬組織の捜査に協力しろということですか」 「はは、じつはさようで……」  警視はいたずらっ子のような笑いかたをした。 「警視、ぼくは──私は休暇のためにここに来ているのです。めったにない機会でして、できれば社会的な責任は屋根裏にしまいこみ、休養に専念したく思っていたのですが」 「わかっております。本来こんなことをお願いするのは筋《すじ》がちがうことですし、何かとご迷惑をおかけすることにもなる。私どもとしても不本意なのですが、このさい他人さまの迷惑は無視して本格的な摘発に乗りだそうということになったのです」 「すると私には拒否する権利はないのですか」 「むろんありますとも。ですが、どうか保留していただきたい。こう非礼なお願いをするのも、今回、大きな好機が到来したからなのです。サイオキシンの大規模な密売組織の長がこのクロイツナハ㈽に姿をあらわすのです」  赤毛の若者は、かるく首をかしげた。 「断言なさるところを見ると、その人物の正体は判明しているのですか」 「皆目《かいもく》。ああ、苦笑なさるのはもっともですが、根拠はあります。じつは密告があったのです」  警視が身を乗りだし、声を小さくするありさまに、何となく愛敬があった。 「私どもはすれておりますからな、こに密告の蔭《かげ》に何らかの思惑がひそんでいるのではないか、とも考えました。たとえば、この密告を信じて警察力をこの衛星に集中させる。となれば当然、他の場所が手薄になり、犯罪者どもは悠々と自己の利益追求に専念できるのではないか、と……」  ホフマン警視は操作卓《コンソール》に片手をのばし、太い指に、意外に軽妙なワルツを踊らせた。コンピューターの合成音が、机上のマイクから流れ出た。それはごく短いもので、サイオキシン密売組織のボスがクロイツナハ㈽に近く滞在する、信じてくれ、とそれだけをつげていた。 「結局、信じることになさったのですね」 「というより、正直なところ、信じる以外に道がありませんでな」  深刻なことを率直に、警視は言ってのけた。 「ご存じのように、サイオキシンは天然の産物ではなく、工場で化学合成される麻薬です。麻薬として神経中枢に与える快楽の効果はたいへんなものですが、毒性も強烈でして、とくに催奇性と催幻覚性とがいちじるしく強い……百聞は一見にしかず、これを見ていただけますか、中佐」  キルヒアイスがしめされたのは立体映像ではなく、昔ながらの平面写真だった。それが警視の配慮によるものだということを、一瞬でキルヒアイスは理解した。二つの小さな頭と六本の手指を持った死産児の写真は、四年にわたる戦場生活で一度たりとも臆病者とのそしりを受けたことのないキルヒアイスにとっても、充分に衝撃的なものだった。 「この赤ん坊の両親が、ともに中毒患者でした。父親のほうが軍隊で悪習にそまって、家庭にそれを持ちこんだわけです。その後、母親は自殺し、父親は精神病院送りになりました」 「……」 「まあ、人間の愚行というものは、あるていどは大目に見るしかないのです。人間というパンは、道徳という小麦と欲望という水とをねりあわせてつくられるものでしてな。小麦粉が多すぎればかさかさ[#「かさかさ」に傍点]するし、水が多すぎれば簡単にくずれて形をとどめない。で、この小さな衛星は、かさかさ[#「かさかさ」に傍点]のパンに水を補給するための存在です。情事も賭博も酒も喧嘩も、まあご自由に、ということなのですが、麻薬となれば、寛大でいつづけることもできません。細いワラでもないよりはまし、というわけでしてな」  警視が淡々と人間観察の哲学を語る間に、キルヒアイスはようやく身体のなかから嘔吐感を追い出すことができた。嘔吐感が去った後の空白は、怒りと嫌悪感によって満たされた。それは容易に去りそうになく、赤毛の若者は、多少なりとも存在した休養への未練を一掃して、初老の警視を見すえた。 「わかりました。私にできることがあれば、お手つだいさせていただきます」  これは老練な相手の思うつぼにはまったということかもしれなかったが、それでもかまわなかった。権力の中枢から無能で腐敗した門閥貴族を追及することに意義があるのと同様、他人の精神と肉体を数世代にわたって傷つけることで利益をむさぼるような輩《やから》を社会から排除することにも意義があるはずだった。 「おお、協力してくださるか、頼りにさせてもらいますぞ」  手をもんで喜んだ警視は、キルヒアイスに熱いチョコレートをいれてくれた。 「じつはわしはこの件がかたづいたら、来年のうちに退職するつもりです。故郷の惑星《ほし》に息子夫婦と孫が三人おりますからな、そこにやっかいになって、昼は孫の相手をし、夜は怪談集を読んで、死んだ家内のところへ行くまで時間をつぶすつもりですよ」  ホフマン警視は、キルヒアイスが知らない小説家の名前をあげ、その著になる「悪夢の辺境航路」なる短編集は世紀の傑作である、と主張した。キルヒアイスは微笑しながら聞いていた。カップからたちのぼるチョコレートの香気が、ふと、子供のころを思い出させた。彼と彼の友にチョコレートをいれてくれた、あたたかい白い手のことを……。  ホフマン警視の協力要請を受けいれて、いったんホテルの自室にもどったキルヒアイスは、正装に着かえ、二ダースをこえるクロイツナハ㈽のレストランのうちでもっとも高級な「ラインゴルド」におもむいた。格式ばった店は彼の好みではなかった。カイザーリング退役少将からのメッセージがとどけられており、生命の恩人を夕食に招待したい旨《むね》が記されていたのだ。  ジャーマンポテトとフリカッセで気軽なひとりの夕食を、と考えていたキルヒアイスとしては、面倒な気分が強かったが、カイザーリングの評判を気にして招待をことわったと思われるのも、いささかうとましい。それに、ホフマン警視の要請を考慮すれば、情報収集の機会を逃すべきではないだろう。結局、彼は招待を受けることにしたのだった。  恒星光の加減であろうか、レストランから見るガス状惑星は奇妙に平板に見えた。サイケデリックな色調の油絵具を無秩序に塗りたくった巨大なパレットが宙空に浮かんで、人々を威圧している。 「よく来てくれた、中佐」  キャンドルの光を顔の上に波うたせながら、退役少将は若い客を迎えた。 「わざわざのお招き、おそれいります」 「じつは来てくれないのではないかと思っていたのだ。私は、その……評判の悪い男なのでな」  羞恥と自嘲のかげりが、キャンドルの光に乗ってカイザーリングの顔をよぎった。招待をことわらなかった自分自身の選択を、キルヒアイスは内心で喜んだ。すでに充分、傷ついている人をこれ以上傷つける必要があるとは思われなかった。  四一九年もののシュベルム産の白ワイン、グリーンペッパーのきいた塩漬豚肉《グーツヘレンブルスト》、ワインとネズの実の香辛料がこうばしい鹿肉ロースト……多少のかた苦しさに対しては寛大な気分になれる食事が一段落すると、キルヒアイスは、可能なかぎりさりげなく、老退役軍人を襲った男に心あたりがないかを訊ねた。 「まるで覚えのないことだ、警察でもそう言ったのだがね、麻薬中毒患者の幻覚に、いちいち正当な原因があると思うほうがまちがいだろう」  運ばれてきたコーヒーの湯気が熱い。 「私が一〇年ぶりにここにきた理由は、旧友たちと再会するためだ。彼らは明日ここに着くことになっているがね」  微妙な変化が声にあらわれていた。 「私たちは四〇年前にはじめてここで出会ったのだよ。私たちとは、私と、友人のバーゼル夫妻のことだ。そのとき私と、クリストフ・フォン・バーゼルは士官学校を出たばかりだった……」  カイザーリングは過去にむかって遠い視線を放ち、ふと気づいたように服の内ポケットから小さなガラス質の直方体をとり出した。ひとつの面を押すと、片手でつつみこめるていどの大きさに立体映像があらわれた。  それは六〇歳をこした年齢の女性だった。老婦人と呼ぶべきであろう。だが端整で品のよい顔だちは、人生の盛りをとうにすぎているにもかかわらず、美しいといってよかった。三〇年前の豊穣な美しさ、四〇年前のみずみずしさにかがやく美しさを、人々は容易に想像することができるであろう。キルヒアイスにとっても、美しい老婦人というものは、はじめて目《ま》のあたりにする存在だった。傲慢さと栄養過多でふくれあがった老婦人、狭量な精神そのままにやせこけて目から猜疑の光を放つ老婦人、そんなものなら宮廷の周囲にいくらでもいた。だが、人は美しく老いることも可能なのだ。 「美しいかたですね」  キルヒアイスの口調には実《じつ》があったので、退役軍人は満足したらしい。立体映像を消し、投影器をポケットにしまうと、はじめてコーヒーに手を伸ばした。 「そう、若いころも美しかったが、六〇になっても美しい」  退役軍人は小さく吐息した。 「お若いの、若さと老いとの間には歴然たる差があるのだよ。若さとは何かを手に入れようとすることで、老いとは何かを失うまいとすることだ。それだけで総括できるものでないことはむろんだが、この逆ではないこともまた確かなのだ。そして彼女は──ヨハンナというのだが、彼女にふさわしく美しく老いた。私などにはとてもできぬことだ」 「すると閣下は、何か失うものをお持ちでいらっしゃいますか」  キルヒアイスは興味の色をおさえて訊ねた。 「いや、私は失うものすらすでになくなっている」  ふたりの間に、コーヒーの香気がたゆたっていた。 「察しがつくだろう? 私は彼女に求婚した。出会いから一年後だ。自分を人生の同伴者として考えてくれないか、と、勇を鼓《こ》して頼んだのだが……」 「ふられたのですか」  かなり非礼にあたる表現のように思ったが、他に言いようもなかったので、そう訊ねてみる。 「いや、ちがう」  老退役軍人はおだやかな表情をくずさない。 「ちがうな。ふられたのではない。最初から無視されておったのだよ、男性としては」  赤毛の若者はどう反応べきかわからず沈黙していた。 「あなたはいい人だ、と言われたとき、私は敗北をさとった。いい人間であることなど、女は男に求めぬものだ。いい人間とは、底の知れた、未知の魅力を感じさせない男に対して憐れみをむけたときの表現なのだよ」 「そうでしょうか」  その断定は、いささかキルヒアイスを落ちつかせなかった。 「そう思うだろうな。いずれにしても私は彼女を怨《うら》む気にはなれなかった。私を傷つけまいと配慮してくれてのことだから。それに、彼女の存在自体が私の喜びだったのだから」  キルヒアイスは老人の心情を半ば以上は理解することができた。彼もまた心の神殿にひとりの女性を住まわせていたからである。  ただ、それが全面的な共感へ踏みこむ一歩手前にとどまったのは、老人の今日《こんにち》が自分の未来そのままである、などとはさすがに考えたくなかったからだ。 「その後は結婚はなさらなかったのですか」 「うむ……こんな考えが正しいのかどうかわからんが、人間の情熱に一定量の限度があって、私はヨハンナの件でそれを費《つか》いはたしてしまったような気がする。どんなに善《よ》い女性と結婚しても、それは私にとって義務の遂行にしかならんだろう。それでは相手にとっても失礼だ」  ……結局、この懇談は、これほど明哲《めいてつ》な人がなぜアルレスハイムで無残な失敗をしたか、その疑問を深めたにとどまった。  糸杉の林をつつむ朝霧のヴェールが、のぼりゆく陽をあびて真珠色から薔薇《ばら》色へ、さらに黄金色へと変化し、湿度の低いさわやかな冷気が、開かれた窓から音もなく駆けこんでくる……。  夢のなかに展開する情景にキルヒアイスは記憶があった。帝国首都オーディンの市街からはなれたフロイデン山地だ。そこには皇帝の山荘があり、彼は何度かラインハルトとともにおとずれたことがあった。 「ジーク……起きなさい、ジーク」  鼓膜にしみこむようなやさしい声が、夢の迷路にひびいている。キルヒアイスは自分を呼ぶ人を知っていた。彼を「ジーク」と呼ぶのは、この世にただひとりしかいない。ラインハルトの姉アンネローゼ、彼の心の神殿に住む女性だ。彼女に呼ばれたからには、どれほど眠くとも、目をさまして駆けつけなくてはならない……。  フロイデン山地の、燈明な風景が消え、機能的だが味気ないホテルの一室にとってかわった。毛布ごと、ベッドから床に転げ落ちている自分を発見した。さわやかとはいえない気分だった。頭の隅にわずかな疼痛がある。  奇妙な息苦しさをともなった睡魔が、経験したことのない不快な感触の触手をまつわりつかせてきた。毒性のガスか、という疑念がひらめいたが、痛覚に類するものが気管や皮膚を刺激することはなかった。もっとありふれたものが彼を死の門へいざなっていた。キルヒアイスは呼吸をとめ、重い瞼《まぶた》を意志の力でかろうじて開きながら、非常用の酸素マスクをベッドの下に求めて手を伸ばした。  所有者の意になかなかしたがわない指をけんめいに動かして、酸素マスクを装着したとき、キルヒアイスの肺は爆発寸前だった。これで酸素マスクにまでしかけがほどこしてあれば、彼の人生は二〇年に満たずして最終楽章に突入していたはずだが、そうはならなかった。  アンネローゼが自分を助けてくれたのだ、と、肺に新鮮な酸素をみたしながら、赤毛の若者は思った。より科学的に言えば、レム睡眠状態にあった彼の潜在意識と、生存への基本的な欲求と、危険に対する鋭敏な警戒心との結合が、アンネローゼという人格を借りて彼の肉体的な覚醒《かくせい》をうながしたのであろう。しかしキルヒアイスとしては、アンネローゼによって救われたと思いたかったし、そのことで誰が迷惑を受けるわけでもなかった。  部下たちの輪のなかで何やら指示していたホフマン警視がもどってきた。 「エアコンダクトのなかから、大量の残留二酸化炭素が発見されました」  二重のあごを警視はなでまわした。 「思うに、ドライアイスを放りこんで気化させ、中佐の寝室に送りこんで窒息させようとしたのですな。しかも朝になれば何の痕跡も残りはしない。じつに、巧妙なことです」 「同感ですね」  皮肉でもなくキルヒアイスはつぶやいた。 「中佐、昨夜カイザーリング閣下とお話になったそうですな。何か不審に思われる点はありませんでしたか」 「彼が犯人だと思うのですか?」 「ひとつの可能性としてです」 「彼は中毒患者に生命をねらわれましたよ」 「擬態ということもありますぞ」  ホフマンの発言に理があることは認めながら、キルヒアイスが釈然としないでいると、警視は肉づきのよいあごをなでまわしながら、「偏見や予断であるという可能性は、たしかにあります。ですが、とにかく吾々は、どこか手がかりをさがして、そこから事実の岸にはいあがらねばならんのです。吾々が動けば、何らかのリアクションがあるはずで、実際、すでにあなたは生命をねらわれている。吾々に対する挑戦とみなさなくてはなりません」  吾々、という複数一人称を警視が連発するのに気づいて、キルヒアイスは苦笑した。 「私は囮《おとり》としてけっこう役に立ったようですね」 「……や、これはなかなか手きびしい」  ホフマンは恐縮してみせた。 「返す言葉がありませんな。にしても、中佐、私がカイザーリング閣下を容疑者とみなすについては、理由がないわけではないのです。軍隊に麻薬が流布するのは、死の恐怖を忘れるためですが、いまひとつ、指揮官にとって有益なことがあります。つまり、習慣性のある薬物は、目に見えない鎖となって中毒患者をしばります。指揮官が麻薬を用い、部下が中毒にかかっているとすれば、部下は上官の命令に絶対服従せざるをえんでしょう」  軽視は丸っこい肩を小さくすくめてみせた。 「背後から撃たれる心配なしに、指揮官が、過酷な命令を下すことができるわけです。麻薬を使う誘惑にかられる者もいるでしょう」  おぞましい話だ、と、キルヒアイスは思ったが、たしかにありえないことではなかった。口のなかに、苦い唾がたまっている。 「私も五年ばかり一兵士として戦場にいたことがあります。正直なところ、顔を見たこともない敵兵より、サディスティックな上官のほうがよほど憎かったですな。私はずうずうしいところがありましたから何とか兵役期間をつとめあげて除隊できましたが、気の弱い同輩のなかには、上官にいじめぬかれて自殺した者もいます。記録上は戦死となっていますがね」  キルヒアイスは内心とまどっていた。警視がここまで率直に軍隊批判をするのは、彼を信頼しているからか、それとも甘く見ているからなのだろうか。 「考えてみれば、もともと兵士の忠誠心なんてものは、いわば精神的な麻薬ですからな。それがきいている間は、陶酔の温かい海にたゆたっていられる。いったん効力を失えば、ぼろぼろになった自分を見出すだけだ」  警視はキルヒアイスの顔を見て、そこに無言の忠告を看《み》てとったらしい。せきばらいをして、意見の開陳を中止した。 「中佐には異論がおありのようですな。じつは言いすぎたと私も思っとります。あつかましいお願いですが、忘れていただければありがたい」 「ご心配なく、私は忘れっぽい人間です」  多少のにがさをこめてキルヒアイスは言い、ふと気づいて訊ねた。バーゼルという退役中将の夫妻が、今日ここへ着いただろうか、と。 「バーゼル退役中将夫妻でしたら、たしか一昨日、すでに着いておいでですぞ」 「……たしかですか、警視?」 「たしかです。軍の高官ともなれば、退役とはいっても治安責任者として気を使いますからな。それが何か?」  あいまいな返事で場を濁しておいて、キルヒアイスはいったん警視のもとを離れた。  レストランに行くと、テーブルについていたカイザーリングに手まねきされた。あまり食欲がなかったので、キルヒアイスはウェイターに頼んで黒ビールに卵と蜂蜜をいれてもらい、それを朝食がわりのエネルギー源にした。なにがなし腹に入れてないと、一日の行動にさしつかえる。  バーゼル夫妻は二日前すでにこの衛星に到着していた、と、ホフマン警視は言った。だが眼前のカイザーリングは、彼らが今日ここへ到着するものと思っている。ホテルの部屋に閉じこもり、食事もルームサービスにすれば、カイザーリングの目につかずにすむ。だが、何のために彼らは、一〇年ぶりに再会する旧友をだまさねばならないのか。  クリストフ・フォン・バーゼルは、失意の友人より一〇歳ほども若く見えた。英気と活力が両眼にも皮膚にも動作にも色こくあらわれていて、軍人としても企業人としても有能かつ行動的であることは、うたがいようがなかった。退役後は実際、ある星間輸送会社の経営陣に加わっているという。 「卿がジークフリード・キルヒアイスか。大佐? そうか、中佐だな。あのラインハルト・フォン・ミューゼル提督の腹心だと聞いているが……」  こころよいほどきびきびした口調なので、ラインハルトの名を出したときの冷笑のひびきを、キルヒアイスでさえ危うく看過《かんか》するところだった。彼を旧友に紹介したカイザーリングは気づかなかったようである。バーゼル夫人ヨハンナが宇宙酔いでホテル到着早々自室に引っこんだと聞き、失望している様子が一目瞭然だった。 「昨日は、わが旧友の危機を救ってくれたそうで、僭越ながら私からも礼を言わせてもらう」  バーゼルの声には、優越感としか解釈しえない響きがあった。 「昨夜は、私自身が殺されかけました」  反発を押しかくしてキルヒアイスが応じると、バーゼルはかるく目を細めた。 「ほう、すると昨日の件は突発的なものではなく、一連の糸によってつながっているとでも中佐は言うのかな」 「そう考えたほうが自然ではないか、と……」 「なかなか興味のある話だ。わが旧友が不逞《ふてい》なくわだて[#「くわだて」に傍点]の犠牲となるとあっては黙視しかねる。くわしく知りたいものだ」 「それ以上のことは、申しあげるのをいささかはばかります。治安責任者から口外を禁じられておりますし、かるがるしく推論もいたしかねます」 「するとごく一部しかしゃべれないと……」 「ええ、ほんとうに、ほんの一部です」  発言の効果を測《はか》りながらキルヒアイスはさりげなく強調してみせた。 「ところで、閣下は、今日の何時の宇宙船《ふね》でお着きになりましたか」 「一〇時半だったと思うが、それがどうしたかね」 「いえ、何でもありません」  この返事は故意のものだった。バーゼルが得心《とくしん》しないことを計算に入れて意味ありげにふるまってみせたのである。どうも、しだいに人が悪くなっていくように思えるのだった。  考えこんでいたキルヒアイスの傍でカウンターにすわっていた男が、不意にコーヒーカップをとりおとした。手だけでなく全身が痙攣し、口角に泡がたまる。うつろな眼光で宙を見すえた男は、立ちあがろうとして、音高く椅子を蹴たおした。非難と気味悪さの視線が集中する中で、男は代金もはらわず、よろめきながら歩みさろうとする。キルヒアイスは銀貨を一枚カウンターに放り出すと、男の後を追った。男はよろめき、すくなからぬ数の他人にぶつかり、その一〇倍以上の人数に忌避されながら、人気《ひとけ》のないほうに歩いていく。  キルヒアイスは、男がひとつのドアに姿を消すのを確認すると、数秒をおいてそのドアをくぐった。  一瞬、失調感が彼をとらえた。身体が浮きあがり、三半規管が抗議の声をあげる。  そこは「フライング・ボール」のゲーム室だった。天井の高さは三〇メートル、床面の広さ六〇メートル四方ほどもある。一〇人以上の選手が軽重力のもとで自在に動きまわれるだけの空間体積が確保されていた。  ようやく低重力下での均衡をたもつことに成功したとき、五つの人影が彼の視野を占拠した。すべての人影が屈強な男であり、片手には超硬度鋼でつくられたファイティング・ナイフのきらめきが、顔には余裕と悪意にみちた表情があった。  キルヒアイスは苦笑した。やはり彼を誘い出すための罠だったのだ。危険を承知でブラスターをフロントにあずけてみせ、虎穴にはいってみたのである。他に採《と》るべき道がなかったかと考えてみたが、さしあたり解決すべき課題が目前にあった。五人という人数は予想外に多かったが、闘って生きのび、できれば彼らの口から人形使いの名を聞き出したいところである。  男たちはかわるがわる高々と跳躍しながらキルヒアイスにせまった。べつに酔狂でとびはねているわけでなく、相手の注意力を拡散させるためである。キルヒアイスはすこしずつ後退しながら、この部屋の周囲の壁が、見物客のため強化ガラスでできていること、いまはシャッターが下りて隔離されていることを確認した。一瞬、否、半瞬で、戦術的判断が下された。キルヒアイスは低重力を利して思いきり飛んだ。行動はともかく、その方角は男たちの意表をついた。赤毛の若者は壁面のレバーにとびついたのだ。  レバーを思いきり下げると同時に、壁面を蹴って宙で一回転する。肉迫した男のナイフは空を切り、キルヒアイスほど可動性に富んでいない男は、回避しそこねて壁面にぶつかった。その眼前でシャッターがあがってゆく。  植物室にたむろしていた数十人の男女が、透明な強化ガラスごしに異様な光景を見ることになった。 「何だ、これは。新しいゲームか?」  人々は顔を見あわせた。彼らの視線の先で、五対一の不公平な戦いがつづいていた。人々はガラスの壁面に顔と手を押しつけ、ボールの投げあいが見られない流血と暴力のゲームを見つめた。酔った声が宣言した。 「よし、赤毛に五〇〇帝国マルク賭けるぞ」 「だが、奴はひとりだけだ」 「よほど強いんだろう。五対一のハンディがつくくらいだからな。おれは奴を買う。お前は五人組に五〇〇賭けろ」  勝手に決めるな、と不平そうに応じた見物人が、不意に大声をあげた。「赤毛」の背後にまわりこんだ男のひとりが、ナイフを勢いよく突きだしたのだ。  だが、キルヒアイスは、相手の腕を腋の下にはさみこんでいた。同時にべつの男が反対方向から躍りかかる。キルヒアイスは、くるりと長身をひるがえし突き出されるナイフと自分の身体との間に、人間の壁をつくった。味方のナイフでまともに左肩甲骨の内側をつらぬかれた男が、はげしく身体を痙攣させる。  死体は血と悲鳴の尾をひきながら、脚をもがれた蜘蛛《くも》のような姿勢で宙をただよっていき、見物席の強化有機ガラスにぶつかって、バウンドした。あらたな流血のビーズ玉が、低重力の空間につらなり、その一端はガラスを打ってさらに飛散する。 「ほんものよ!」  女性の悲鳴があがり、見物人たちは騒然となった。警察を呼べ、という叫びにまじって、昂奮した声がどなる。 「なるほど、たしかにほんものだ。よし、掛け金を一〇〇〇にあげるぞ。そのくらいの価値はある。がんばれ、赤毛、お前におれの人生を託したぞ」  勝手きわまる声援は、ガラスにさえぎられて、赤毛の戦士の耳にはとどかなかった。  もはや刺客たちは見物人たちの目をはばかろうとしなかった。人数はひとりへったが、攻撃の苛烈さは二割増しになっていた。だが、キルヒアイスの手にも、死者からもぎとったナイフがある。包囲されるのを避けて後退した彼に、跳躍した敵のナイフが上方から伸びる。零コンマ数秒の差でその刃を引っぱらい、返す一撃を咽喉もとにたたきこんだ。  これでふたり。そう思ったとき、ふたたび失調感が襲った。  重力が平常時にもどったのだ。  キルヒアイスは五〇センチほどの距離を垂直移動しただけで、柔軟な関節の効用とあいまって、けがひとつしなかった。  部屋の天井近くにまで上昇していた男たちは悲惨だった。狼狽と恐怖の叫びを高みに残して石のように落下し、セラミックの床にたたきつけられる。骨のくだける音が見物人たちの悲鳴と叫喚にかき消されるなか、武装した半ダースほどの警官たちが荒々しく人波をかきわけながら駆けつけた。キルヒアイスの運がよかったのではなく、彼が負傷しないタイミングをはかって重力スイッチを制動させた者がいたのだ。その男、ホフマン警視が心配そうに彼を見やった。 「けがはありませんか、中佐」 「何とかね」  さりげなく答えたいところだったが、呼吸の乱れを抑制するのは困難だった。 「おかげで助かりました。機敏なご処置を感謝します」 「管制室から連絡がはいりまして、フライング・ボール場のモニターが作動しない,と言うのです。私がいくら鈍感でも、悪い予感に駆られるのは当然ですよ」  満足げなホフマンである。 「それにしても、五対一の急場を切りぬけられたとは、おみごとですな、中佐」 「来ていただくのが三分遅れたら、ほめ言葉を聞けなくなるところでしたよ」  警官に運び出される刺客たちの姿に、ふたりは視線を送った。 「ひとりは脚を折っただけで生命には別条ないようですから、何か聞き出せることでしょう」 「やとわれただけかもしれませんよ」 「バーゼル退役中将に、ですかな」  キルヒアイスの視線を受けて、ホフマン警視はてれくさそうに笑った。 「あなたのおっしゃたことが気になりましたのでね、すこし調べてみたのです。ひとつふたつ、興味あることが判明しました」 「どんなことです?」 「ひとつは、中佐もご存じのことです。バーゼル夫妻が予定より早く、このクロイツナハ㈽に到着し、投宿したことです」  警視はとがめる目つきをしたが、それほど深刻なものではなかった。 「こんなことはすぐわかることです。教えていただければよかったのですが、まあそれはよろしい。もっと関心を持つべきことがあります。むろん私は教えてさしあげますぞ」  キルヒアイスは教えてもらった。そして、聞く前のほほえましい気分を身内から一掃させてしまうことになったのだ。  キルヒアイスはあらためてカイザーリングの部屋をおとずれた。老退役軍人は彼を迎え入れながら、不審とかるい警戒の色を浮かべた。つまりはそうさせるものが、キルヒアイスの態度にはあったのだ。コーヒーのルームサービスをとろうとする年長者の好意を謝絶し、赤毛の若者は低い声で質《ただ》した。 「アルレスハイム会戦のとき、閣下、あなたは艦隊司令官で、バーゼル中将は後方主任参謀として補給部門の責任者だったのですね」  無言の数瞬の後、カイザーリングはうなずいた。  当時はカイザーリング中将であり、バーゼルは少将としてその下につく身だったのだ。そしてバーゼルはサイオキシン麻薬を保持していた容疑で参考人として憲兵隊に呼ばれ、カイザーリングの証言によって放免されている。帝国軍が惨敗したのは、その一ヵ月後だった。 「あのとき帝国軍が潰乱《かいらん》したのは、気化したサイオキシン麻薬が流れ出し、将兵が急性の中毒状態におちいったからですね」  老退役軍人は口を閉ざし、表情にブラインドをおろしていた。その態度こそが、あやまりようのない返事だった。 「そのことを閣下は軍事裁判で主張なさっていれば、罪を問われるのはバーゼル中将だったはずです。閣下は沈黙によって、かつての恋敵《こいがたき》をお守りになった。そうですね?」  詰問口調になっていはいけないと思いつつも、声に激しさがこもりがちになる。あまりにも一方的な犠牲というべきあった。カイザーリングが軍を追われたのに対し、バーゼルはその後、中将に昇進し、立場は逆転した。 「なぜです? なぜ、そうしてまでバーゼル中将をかばわなくてはならなかったのですか?」  カイザーリングはゆっくりと両手の指を組んだ。 「それほど難しい疑問ではない。彼女が──ヨハンナが選んだ男が、犯罪者であってはならんのだ。ヨハンナが彼女にふさわしい男を選んだ。彼女にふさわしい、高潔で実《じつ》のある男を……」  キルヒアイスは、とっさに反論の言葉を見つけることができなかった。これは信仰というべきか。それとも幻想だろうか。理をもって非難することが可能だろうか。 「ですが、閣下の名誉はどうなるのです」 「私の名誉など、とるにたりんよ。第一、味方の混乱と潰走をくいとめることができなかったのは事実なのだ。軍事法廷は不当に私をおとしめたのではない」 「では言いかたを変えましょう。不当なのはあなたが罪をえたことではなく、バーゼル中将が罪をまぬがれたことです。その不当さをただすために、証言なさるおつもりはありませんか」 「いや、私にはできんよ、中佐。もし私が彼を摘発することに協力したら、醜い嫉妬のために四〇年前の歳月を忘れたと言われるだろう」  ためらいはあったが、キルヒアイスは言わざるをえなかった。 「お言葉ですが、閣下、あなたはかつて無能な卑怯者というわれなき汚名を甘受なさったではありませんか。恋人のためにその汚名を受けることはできても、麻薬に犯された人々のためにはできないと言われるのですか」  老退役軍人の眉がくもった。沈黙はやや長くつづいた。 「私はこの前、言い忘れようだ。若さとは社会的な正義を求めるにためらわぬことだ、ということをな。三年前、私はすでにその若さを失っていた。私は彼女を不幸にしたくない、その一心だったのだが……」  声は重く、だがやわらかさを欠いてはいなかった。 「だが、誠意や愛情が、それをつくされる者にとっては負担でしかない場合もあるのだな。人生は初級の数学ではない、方程式ですべてが解決するわけではない。これだけの愛情をそそげばこれだけの結果が返ってくる、とわかっているなら、人生は何と単純で明快なものだろう」  ミヒャエル・フォン・カイザーリングは、自分自身を鞭うつ表情をした。キルヒアイスは息を殺した。 「中佐、君は正しい。私より正しい。私が三年前、事実を語っていれば、すくなくともそれ以後のサイオキシン中毒患者の発生は防ぐことができただろう。私は自分の感傷のために、多くの兵士を犠牲にしてしまった。彼らにも愛する者がおり、手に入れたいものや守りたいものがあったというのに……」  頭をかかえて老退役軍人はつぶやいた。 「私は度しがたいナルシストだった。誰ひとり私によって幸福にならなかった……」  一時間後、キルヒアイスは立体映像の老婦人ヨハンナ・フォン・バーゼルにはじめて対面した。彼女は夫と異なる部屋をとっていた。予約より早く到着したため、べつべつのシングルの部屋しかあいていなかったのだ。そうまでして早く到着せねばならなかったのが、バーゼルらの行動の奇妙さを強調する傍証のひとつであったかもしれない。ただ、部屋自体は、充分な広さと感じのよい調度と、古風な暖炉をそなえており、居心地よさそうに見えた。  立体映像にくらべれば、実物はやややつれて見えたが、気品のある美貌はキルヒアイスの想像を裏ぎらなかった。 「ミヒャエルの代理でいらしたそうですね、ご苦労さま」 「はい、なぜかそういうことになったようです」  事実とはいえ奇妙な返事だ、と、キルヒアイスは思った。カイザーリングが積年の願望を放棄して自室にこもってしまったのを、心弱さのゆえとそしる気にはなれなかった。キルヒアイスが事情を説明しようとすると、老婦人はやわらかくそれをとどめた。 「たぶん、あなたのおっしゃりたいのは、夫《クリストフ》の罪状について彼《ミヒャエル》がいま暴露する、その事情を了解してほしいということでしょう?」  キルヒアイスは、思わず背すじを一段と伸ばしてしまった。 「なぜそれをご存じです?」 「だって、この衛星に麻薬密売組織の長がくると警察につげたのは私ですから」  キルヒアイスがおどろいたのは、老婦人の告白におどろかない自分自身に対してだった。理由もなく、その可能性を心のなかで検証してきたのである。 「クリストフにも私は匿名で知らせました。あなたの悪事を知っている者がいる。いまのうちに手を引けば、あえて司直には知らせない、と。でも逆効果でした」 「バーゼル中将は、そのメッセージを、カイザーリング少将からの脅迫と思ったのですね。だから患者を刺客として放った。その成果を確認するためにも、予定より早くクロイツナハ㈽に来なくてはならなかった……」 「ええ、お若い人、あなたの推測なさったとおりです」  ヨハンナの平静さが、キルヒアイスの若さにはやや度のはずれたもののように思われた。 「カイザーリング閣下に対する危険を予測なさるのは無理だったでしょう。ですが、失礼ながら夫人を愛していらしたかたです。出すぎたことと承知で申しあげますが、何とかご配慮いただけなかったでしょうか」  静かすぎる声が答えた。 「お若い人、私が誰に愛されたかということは問題ではありません。私が誰を愛したかということが重要なのですよ」  返答に窮することが、この二,三日で何度もあったが、これもその一例になりそうだった。 「ミヒャエルがクリストフより善良で誠実な人であることは、私にもよくわかっていました。でもね、お若い人、人間としての評価の高さと、愛情の深さとの間には何の関係もないのですよ」  キルヒアイスの胸の奥を、一瞬、鋭い痛みが駆けぬけた。老婦人が言ったことは真実で、しかもあまたの真実のなかでも冬の領域に属するものだった。 「……そう、一年ほど前にわたしは自分の夫が、どんな時代、どんな政治体制のもとでも許されぬ所業をしていることを知りました。ミヒャエルの心情につけこんで軍事裁判の被告たることをまぬがれたことも。私は、四〇年前のようにこの場所で、三人が顔をあわせようと提案しました。夫がミヒャエルに罪をわびてくれればと思ったのです。そのために小細工もしました。でも、夫が予定より二日早くここへ到着するよう決めたとき、私の甘い思惑ははずれたのです……」  バーゼル退役中将は重厚なまでに沈着な態度で、赤毛の若い中佐を迎えた。たとえ虚勢であるにせよ、悪徳にみちたこの男には相応の器量と貫禄があることをキルヒアイスは認めないわけにはいかなたった。 「五人でひとりを倒すこともできないとは、私もろくでもない配下ばかり持ったものだ。残念だが、失敗を認めなくてはなるまいな。適当な金額で折りあいをつけんかね、中佐」  厚顔な申し出に、若者は憮然とした。 「あなたが戦争の渦中で不当にえたものを、さらに巻きあげる気はありません」 「背ばかり高い赤毛の坊や、戦争というやつはもともと利益になるのだよ」  むしろ悠然として説くのである。 「考えてもみるがいい。利益をえる奴がいるからこそ、戦争がおきるのだ。誰ひとり得をする者がいないなら、そんな社会上のシステムが存続するわけはないのだ。そして、それが存続するからには、有効な利用の途《みち》を考えるのは当然ではないか」 「あなたと戦争に関する哲学を論じる気はない」  奔騰《ほんとう》しようとする感情の手綱を、けんめいに引きながらキルヒアイスは応じた。ともすれば手が用意のブラスターに伸びかける。 「現状を認識すること、肯定すること、悪用することはそれぞれべつのものであるはずだ。あなた個人の利益のために兵士たちが心身を犯されねばならない理由がどこにあります」 「豚は人間に食われるために存在するのであって、人間を食うために生きてはいない。それが大げさに言えば宇宙の摂理というものだよ、中佐」 「兵士たちは豚か……」 「怒ったかね。だが、中佐、卿とて兵士たちを戦場で死なせて今日の地位をえたのではないのか。卿は枠組を守り、私はいささか踏みはずした。単にそれだけの差だ」 「……」 「告発するなら、すればいい。だが、何の物証もないではないか。私の申し出を受けたほうが賢明というものだぞ」 「物証のかわりに、カイザーリング退役少将の証言がある」 「ふられ男の恨み言《ごと》か、ばかばかしい」 「それと、ヨハンナ夫人の証言も。これすらも無視なさるおつもりか」  バーゼルははじめて眉根を寄せた。キルヒアイスがヨハンナの発言を簡潔に要約すると、眉の寄りぐあいが激しさをました。舌打ちの音が鋭くたった。 「なるほど、そうか。ヨハンナは四〇年前にミヒャエルをふった心の負い目を、そんな形でぬぐいさろうとしたのだな。頭をさげるのは彼女ではない、私だからな。いい気なものだ」 「あなたはそんな考えしかできないのか!」 「だから現在《いま》まで生きてこられた」  冷ややかにバーゼルは言い放ち、薄い笑いを赤毛の弾劾者に向けた。 「キルヒアイス中佐、卿《けい》は賞賛すべき気質の持主であるようだが、少しは工夫をこらさんと長生きできんぞ」 「よけいなお世話だ」  怒りと若さが、キルヒアイスの口調を乱暴で妥協のないものにした。怒りは自覚してのものだったが、若さは自覚外のことだった。本来、激情に対する自制心に富んでいた彼だが、限界が近づきつつあった。 「よけいなお世話か、だが、私に言わせれば三年前のカイザーリングのやったことこそそれだった。頼みもせぬのに罪を引き受け、私に無言の恩を押しつけたのだ。奴は昔からそういう……」  バーゼルは口を閉ざした。ドアが開いて、キルヒアイスの背後に官憲の人垣がつくられたからである。 「話はおすみですかな、中佐」  いちおう訊ねはしたが、返答を待たず、ホフマン警視は昂奮ぎみの顔をバーゼルにむけた。 「バーゼル退役中将閣下、あなたの配下の者が殺人未遂現行犯で逮捕されたことはご存じですな。先刻ようやく自供がえられました。閣下を殺人教唆の容疑で検束させていただきます」  とりあえず、とつけくわえたのが、警視としては最大級のいやがらせであったろう。バーゼルは険しい視線で闖入者の群をひとなでした。 「警視ごときが、でしゃばるな。私は帝国軍退役中将だ。民間人と同列にあつかってすむと思うか」  警視は挑戦的に胸をそらした。 「お言葉ですが、閣下、純粋の刑事犯罪、なかんずく殺人、麻薬事犯、誘拐等の重犯罪に関しては身分秩序を顧慮する必要なし、と、内務省の規定に明記してあります」 「小役人が、たかだか一官庁の規定を盾《たて》に、もと将官たる者を検束しようというのか」 「ご不満なら、軍事裁判にことをゆだねてもよいのです。カイザーリング閣下も証人になってくださることですし、お荷物をあらためれば、確実な証拠も出てくるでしょう」  バーゼルは片頬をゆがめた。 「……なるほど、どうやら私の負けのようだ。いさぎよく認めよう。最後に妻にひとこと言っておきたいので許可してほしい」  バーゼルは隣室に通じる|TV電話《ヴィジホン》の音声スイッチだけを入れると、奇妙な表情をひらめかせて、容易ならぬ言葉を発した。 「ヨハンナ、私だ。お前の部屋のライティングデスクに、私の書類いれが置いてあるな。その中身を、すぐに燃やせ」  キルヒアイスは目をみはり、ホフマン警視は飛びあがった。軍隊内麻薬組織の頭目は、唇を半月形にしてすさまじい嘲笑を浮かべた。 「聞いただろう? 私は中身と言っただけだ。それが証拠品であることをどうやって証明する?」  キルヒアイスは身をひるがえした。ホフマンの指揮する警官隊は、逆方向に走ってバーゼルに殺到した。無言のうちに彼らは役割を分担したのだ。  隣室にかけこんだキルヒアイスは、古風な暖炉の前へ書類の束を持って歩みよろうとする老婦人の姿を認めた。 「その資料をください、夫人。それがあればクリストフ・フォン・バーゼル中将を告発できます。麻薬事犯として、軍隊内における秘密犯罪組織の主犯として、アルレスハイム敗戦の真の責任者として、カイザーリング少将に汚名をはらす機会をあげて下さい」  老婦人はひっそりと笑った。 「お若い人、私はクリストフを罪人とすることに協力することはできません。彼に頼まれたことを実行します」 「|バーゼル夫人《フラウ・バーゼル》……」 「わたしはこれを焼いてしまいます。とめたければ、私をお撃ちなさい」 「夫人……!」 「理非善悪は、わたしに関係ないことです。クリストフが自ら罪を認めぬというのなら、わたしも夫の罪を認めることはできません。私にはその資格がないのです。わたしは彼に似つかわしい、つまらない女です……」  老婦人を撃たねばならないことが、キルヒアイスにはわかっていた。彼女が資料を焼こうとするかぎり、カイザーリングのためにも、ホフマン警視のためにも、他の多くの人々のためにも、そして彼自身のためにも、老婦人を撃たなくてはならない。よくわかっていた。だが同時にもうひとつのことがわかっていたのだ。武器を持たない老婦人に銃口を向けることができても、引金《トリガー》を引くことはけっしてできないであろうと。  ラインハルトなら引金を引くだろう。たとえためらっても、それを表面にあらわすことなく、なすべきことをなすだろう。それが自分がラインハルトにおよばない理由であることを彼は知っていた。  無力感にさいなまれながら、キルヒアイスは銃をかまえたまま立ちつくしていた。  ヨハンナ・フォン・バーゼル夫人は、手にした書類の束を暖炉の火に近づけた。その動作はたいそう緩慢だった。あるいは彼女は撃たれることを望んでいたのだろうか……。  閃光がキルヒアイスの傍を走った。  赤毛の若者は、戦場における勇敢さと大胆さにおいて人後に落ちなかった。だが、このとき彼は自身の知覚を制御することができなかった。視界から色彩が消失し、老婦人は胸から暗色の液体を流して床に倒れこんだ。焼失をまぬがれた書類の束の、最後の一枚が床に舞いおちたとき、初めてキルヒアイスは人体が床にぶつかる音を聴いた。  キルヒアイスは視線をめぐらした。ブラスターをかまえて、ミヒャエル・フォン・カイザーリングが立ちつくしており、開いたドアから警官たちが乱入しつつあった。ブラスターが床に落ちた。カイザーリングは罪人のようにうなだれて老婦人の傍にひざまずいた。 「ヨハンナ、ヨハンナ……」  老人は、死に至るまで彼を拒否しつづけた女性の名を呼びつづけていた。キルヒアイスは黙然と頭を振り、見事な赤毛をその動作によって波だたせた。自分が声をかけてはならないことを彼は知っていた。  書類の束を、赤ん坊でも抱くようにかかえたホフマン警視がささやいた。 「これがあればバーゼル中将を告発できます。中佐にはいろいろとお骨おりいただきました」 「私は何もしませんでしたよ」  赤い髪をかきあげながらキルヒアイスはささやき返した。 「カイザーリング閣下がご自分でご自分の汚名を雪《すす》がれたのです」  膨大な量の感情を四捨五入して、キルヒアイスはそう表現した。いずれ一連の事件が公《おおやけ》になれば、帝国の公式記録はそう書きとめるだろう。不名誉な敗戦の責任者とされた人物が、じつは古風だが格調ある騎士であった、と。公式記録というものはそれでよい。その文字は、血と涙によって薄められるべきではない。しかし、ひとりひとりの人間には、異なる記憶がきざまれてよいはずだった。  キルヒアイスにとって、重要なのはアンネローゼの愛を求めることではない。彼がアンネローゼを愛したということ。ミヒャエル・ジギスムント・フォン・カイザーリングが後悔しなかったように、ヨハンナ・フォン・バーゼルが後悔しなかったように、彼ジークフリード・キルヒアイスもけっして後悔しない……。  その思いがキルヒアイス自身の記録であり、この一両日をたしかに生きたという証明《あかし》であった。  到着した宇宙船から、さまざまな容姿と服装の人々が流れ出てくる。だが、豪奢《ごうしゃ》な黄金色の頭を見つけることは、キルヒアイスにとって困難ではなかった。ラインハルトにとっても、ひときわ高い位置にある赤い頭を発見するのは容易だったであろう。 「キルヒアイス!」  そう呼びかける生気と音楽性にとんだ声が、こよなくなつかしいものに若い中佐には感じられる。  足どりをはずませて歩みよった金髪の若者は、心もち伸びあがるようにして、赤毛の友の肩に腕をまわした。 「どうだ、おれがいない間、羽を伸ばせたか。小うるさい相棒などいないほうがよかろう?」 「いえ……」  赤毛の若者はきまじめにかぶりを振った。 「私の羽は、ラインハルトさまのおそばにいてこそ伸ばせるのです。そのことがよくわかりました」  ラインハルトは蒼氷色《アイス・ブルー》の瞳で友人を見つめ、誰ひとりまねようのない笑顔で、しなやかな指先に赤い髪をからませた。 「では、おれもお前のそばで羽を伸ばそう。まず再会を祝してワインを一杯。そのあと、よければ何があったか聞かせてくれ」  巨大なガス状惑星は、ふたりの若者を見おろしながら、一瞬ごとに異なる色の帯を巻きつけていた。